死と向き合う
とりあえずここでの目標は、生きるということ、死ぬということに対する自分の考えをはっきりさせることと理解してください。
当然、その考えは変化しても何ら問題ありません。
むしろ、人生を歩みながら少しずつ変わっていくのが自然だと思います。
あなたも例外ではないと思いますが、ほとんどの人は少なからず死に対して怖さを抱いているものと思われます。
その死に対する恐れは正直なものです。
死ぬことは怖くない、と言われている方がおられますが、心の底から死は怖くないと思える人はそんなにはいないと考えています。
でなければ、死について語ることがこんなにもタブー視されることはないはずだからです。
さて、死ぬことが怖い、と誰かに話したらどんな答えが返ってくるでしょうか。
誰でも一度は死ぬ
生まれたら死ぬのは運命だ
生きることは苦しいことで、そこから解放されるのが死だ
魂は死なない
私なんか死ぬことが怖いと思ったことはない
死んだら死んだ時のことと思え
なんて感じでしょうか。
そう聞いて死に対する怖さが少しでも和らぐでしょうか。
死を身近に感じていない人がどんなことを言っても、死の恐怖におびえている私には何の気休めにもなりませんでした。
私は死ぬことが怖くてたまりませんでした。
なぜ死は怖いのか、答えはただ一つ「分からない」からです。
死んだら自分がどうなるか分からないからです。
その正体不明の不安が、死を怖いものとして認識しているのです。
ということは、死の正体を正しく知れば、死は怖いものではなくなるということです。
ここが一つの関門です。
死について深く考えようとすらしてこなかったわけですから、死について考えることはとても勇気が必要になります。
そこを踏ん張って考えてみましょう。
死を考える
誰でも一度は死について考えたことがあるでしょう。
その時、どんな気持ちがしましたか?
私だけでなく、ほとんどの人はたまらなく大きな不安に襲われたと思います。
その不安があまりにも大きかったために、私のように多くの人もその後、死について考えることをしなくなります。
死について考えることから離れてしまうのです。
深く考えることをしないばかりか、不安にならないために、あえて死について自ら考えないようにするというのが多くの人の姿です。
人は必ず死ぬのですが、死について深く考える人というのは、ごくごくわずかではないでしょうか。
ところが、だんだん年を取ったり、重い病気にかかったりして死が現実味を帯びてきたときに、死について深く考えてこなかったツケが一気に回ってきます。
死が少しずつ目の前に姿を見せ始めたとき、どうしても死について自分なりの答えを出さざるを得なくなります。
死というのは逃れられないものですから、死が現実として自分の前に現れた時、どうしても死についての思いや考えにとらわれてしまうのです。
けれども死について深く考えてこなかったわけですから、いざ考えようとしても不安が先に立って考えがまとまりません。
そのことで余計に不安を感じます。
だから、認知症になったほうが楽だとか、認知症は神様からの贈り物だ、なんて的外れな言葉が出てくるのです。
誰がどう考えても認知症になったほうが良いなんて答えが出るわけはないのですが、それほど死を怖いものととらえているのでしょう。
もちろん、認知症になったほうが楽だと心から思える人はそれでも一向にかまいません。
私たちは分からないことに不安を感じるという脳の性質を持っています。
というのも、子供のころの疑問の多くは大人に聞けば解決しますし、算数や国語や社会といった勉強にも答えがあるからです。
つまり、私たちは成長の過程で、すべてのものには正しい答えがあると勘違いをしてしまうのです。
だから分からないことに出会うと何とか答えを出そうと頑張ります。
病気が良い例で、なぜ病気になったかということを知りたがります。
どうして自分がこんな病気になったのか、なぜ自分なのか。
そして、どうすればこの病気が治るのか、どうすれば死なないで済むのかといったことを探すようになります。
でも、残念ながらその試みは、ほとんどの場合失敗に終わります。
というのも私たちは肝心なことは何も知らないからです。
いかに医学や化学が発達したところで、なぜ病気になるのか、どうすれば治るのか、なぜ死ぬのか、といったことに対しても、私たちはいまだに何の答えも手に入れていないのです。
健康に関しても、多くの人が持ついろいろな説のほとんどは、何らかの情報がもとになっていて、その何らかの情報の多くは単なる仮説にしか過ぎないのが本当のところなのです。
この世界に存在しない正解をめぐって仮説同士が反論し合っているというのが多くの理論の真の姿だと思ってください。
魂って
ここで、魂という言葉について考えてみましょう。
私たちの周りには魂の存在を信じる人もいれば信じない人もいます。
なぜでしょうか。
信じる人は信じない人を完全に説得できる材料を持っていないし、同様に信じない人は信じる人を完全に説得できる証拠を提示できないからです。
だから、あいつは魂などという怪しいことを信じて馬鹿な奴だとか、反対に、あの人は魂の存在に気付かない愚かな人だ、という風にどちらも自分が正しいと思い込むしかないのです。
でも、脳の性質により、私たちは何も知らないと気づくことはないのです。
実際には、一つ一つ深く追求していくと、実は私たちは何も知らないということに気が付くはずです。
私たちは分からないことに出会うと、いろいろ調べて自分が納得できる答えを探すという脳の性質を持っています。
ただし、死については別物です。
なぜなら、死について考えた時の不安と、分からないまま放っておく時の不安を比べると、死について考えたときの不安のほうがはるかに大きいからです。
だから多くの人たちの思考の中で死はタブーになっています。
医療現場でも同様に、死が目前に迫っている人たちがあふれていても、死の話題はあえて避けているのです。
死を扱うはずのお寺も教会も死をタブー視しているようです。
なぜなら、死とはどんなものかを説明しきれていないからです。
なぜでしょうか?
分からないからです。
私たちの周りは分からないことだらけ
私たちはなぜ死ぬのか? この問いに対する正解はありません。
なぜなら医学的にも分からないからです。
心臓が止まった瞬間は分かりますが、なぜ心臓が止まるのかは分かっていません。
正解のないもの、分からないことを考える意味があるのか、と思われるかもしれませんが、思考の幅を広げるには最適の方法だと断言できます。
私たちは考えることが苦手です。
私たちに備わっている動物としての脳がエネルギーの無駄遣いを嫌うからです。
そこを踏ん張って考えることができるかどうかにあなたの将来がかかっていると言っても過言ではありません。
少しずつ、たった1分からでも構いませんから、不安に打ち勝って考え始めてください。
そのうち集中して考えることができるようになります。
そうなるとしめたもの。 集中すると座禅や瞑想と同じ効果を得られます。
どういうアプローチでも構わないのですが、死を考え始めたとき、次第に頭に浮かんでくるのが「命」という言葉です。
死ぬとはどういうことか? 死んだらどうなるか? 命って何? なぜ生まれてきたの?
そんな感じで答えを探してみてください。
自分なりの答えは必ず見つかるはずです。
自分なりの答えが見つかれば、人生から多くの不安が消えてなくなるでしょう。
死に向き合うことはパニック障害を軽快させるだけでなく人生そのものの質を上げてくれる力を持っているのです。
パニック発作では死なない
このことを最初に知っていれば私の長期間の苦しみは半減していたでしょう。
実はパニック発作は命を守ろうとする脳の働きから生まれるものです。
何かに不安を感じることで脳はその不安を解消しようとします。
パニック障害はその反応が過剰になったものだと考えられています。
つまり、パニック発作は脳が自らの命が危険にさらされる可能性があると判断したときに起きる症状だということです。
ということは、パニック発作では絶対に死なないと言えるのです。
命を守る仕組みから生じた症状で、命を落とすことはありえないことだからです。
私の経験上、パニック発作は早ければ10分程度、長くても1時間ほどすれば自然に軽快します。
もちろん嫌な感じはしばらく残りますが、命の危険を感じるほどの発作はそれほど長続きしないものです。
過剰な反応を抑える体の自然な働きがそうさせるのです。
私はパニック発作の間中常に死と隣り合わせの恐怖を抱いていました。
おそらくあなたも同様だと思います。
安心してください。
パニック発作は命を守ろうとする体の働きから生きる症状だから、パニック発作で死ぬことは決してないのです。
同様に、気が変になることもないし、どうにかなってしまうこともありません。
パニック障害は確かに厄介な病気ですが、自分の命や精神が脅かされることがない病気だということも事実です。
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