道元禅師(1200-1253)が中国の禅寺で高僧伝を読み修行をしていたときのエピソードです。
「 一日(いちじつ)、示(じ)に云(いわ)く、
我れ在宋(ざいそう)の時、
禅院にして古人(こじん)の語録を見し時、
ある西川(せいせん)の僧の、道者(どうしゃ)にて有りしが、
我れに問ふて云(いわ)く、
「何(なに)の用(よう)ぞ」。
答えて云く、
「古人の行履(あんり)を知らん」。
僧云く、
「何の用ぞ」。
云く、
「郷里に帰りて人を化(け)せん」。
僧云く、
「何の用ぞ」。
云く、
「利生(りしょう)の為(ため)なり」。
僧云く、
「畢竟(ひっきょう)じて何の用ぞ」。」
(『正法眼蔵随聞記』三・一五)
道元禅師が経を写していると、その寺の僧が
「何のためにそれをするのか」と問いかけます。
道元は「学びたいからだ」と答えると、
再び「何のために学びたいのか」と聞かれ、
「郷里の人々を安らかにしたいからだ」と答えます。
更に僧は「それがいったい何の役に立つのか」と問い、
道元は答えに詰まった、というお話です。
普通?の人なら、「えーい、うるさい」となるでしょうが、
さすが道元、自分の中で答えを見つけたんでしょうね、
日本に帰り、曹洞宗の源流となりました。
途中で考えるのをやめてしまうと、それが何になる、という問いが重くのしかかり、
何も出来なくなってしまいます。
これをしても何にもならんのじゃー、
んじゃ、やーめたって感じですね(^^;
多くの人の反応です。
中には、何もしない理由に使う人もあります。
なんでせんのん?
やっても何にもならんのんじゃもん^^
このエピソードにもいろいろな解釈がなされていますが、「ひっきょう」・・・
「ひっきょう」とはとどのつまりという意味です。
とどのつまり、深く深く考えて答えを見つけなさい、ということです。
自分の喜びや幸せは、誰かに、あるいは何かに依存しているのではなく、
自分の中にあります。
私たち一人一人が答えを持っているのです。
たまには深く深く自分に問いかけてみませんか?
「何のためにそれをするのか」
「それがいったい何の役に立つのか」
まとめ
道元禅師は、禅宗の開祖として知られ、釈迦の教えを深く理解し、それを広めることに生涯を捧げました。
彼の教えは、単に教義を伝えるだけでなく、実践を通じて体験することの重要性を強調しています。
道元禅師が釈迦の教えを伝えることに生きがいを感じたのは、彼自身がその教えを深く愛し、実践する中で得た真理や喜びを他者と共有したいという思いからです。
彼は、禅の修行を通じて、心の平安や自己の本質を見出し、それが人生の本質的な楽しみであると考えました。
「人生を楽しもう」とする姿勢は、道元禅師の教えにも通じるものがあります。
彼は、日常生活の中での小さな瞬間や行為にこそ、深い意味や喜びがあると説いています。
つまり、釈迦の教えを伝えることは、彼自身がその教えを楽しみ、実践することから生まれた自然な流れであり、他者にもその楽しさを伝えたいという願いがあったのです。
このように、道元禅師の生き方は、教えを伝えることが自己の喜びであり、人生を楽しむための一つの方法であることを示しています。
彼の教えを通じて、私たちも日常の中での喜びや意味を見出し、人生をより豊かに楽しむことができるのです。
あなたも、楽しく生きようと心に決めてみませんか?
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